日本の器は、使うほどに静かな存在感を放つ。
華やかに主張するのではなく、日常に溶け込みながら、長い時間の中で人の手と心に寄り添う──そんな器の代表格が、有田焼である。
佐賀県の西部、山々に囲まれた小さな町・有田。
この地で17世紀初頭に誕生した有田焼は、日本で初めて磁器を焼いた産地として知られる。
その白磁は、まるで清らかな水面のように光を映し出し、そこに藍の線や朱の花がそっと浮かぶ。
有田焼はまさに、日本人の美意識そのものを形にした存在だといえるだろう。
有田焼の起源
物語の始まりは、17世紀初頭にさかのぼる。
文禄・慶長の役の後、朝鮮半島から渡ってきた陶工たちが、この地で磁器の原料となる白い陶石を発見した。
その中心人物が、李参平(り・さんぺい)である。彼は有田の泉山で磁石を見つけ、日本で初めて白磁の焼成に成功したと伝えられている。
これをきっかけに有田の山あいには次々と窯が築かれ、静かな村は瞬く間に日本磁器の中心地へと変わっていった。
当初は技術も未熟で、磁土の精製も十分ではなく、焼き上がりの白磁はわずかに灰色を帯びていた。
それでも陶工たちはその新しい素材に魅せられ、改良を重ねながら独自の美を育てていった。
初期伊万里の発展 ― 試行錯誤から生まれた美
こうして生まれたのが、「初期伊万里」と呼ばれる磁器である。
「伊万里」という名は、焼き上げた器が伊万里港から全国、さらには海外へと運ばれたことに由来する。
初期伊万里は、白磁の表面に鉄釉や呉須(酸化コバルト)による藍色の絵付けが施され、素朴で温かみのある風合いを持っていた。
その表現は中国の景徳鎮の影響を受けつつも、日本独自の美意識によって再構成されたものであり、のちの「和様磁器」の原点ともなった。

白磁がわずかに灰色を帯び、素朴で温かみのある風合いを持つ「初期伊万里」
17世紀中頃になると絵付けの技術はさらに進化し、赤絵や金彩を施した豪華な色絵磁器が登場する。
これが、後に「柿右衛門様式」として名を馳せることになる。
白磁の中に鮮やかに浮かび上がる赤・青・黄の文様は、日本らしい繊細さと華やかさを兼ね備え、国内はもとよりヨーロッパでも高く評価された。
特にオランダ東インド会社(VOC)によって輸出された有田焼は、「IMARI」の名で王侯貴族の間に広まり、西洋の磁器文化にも大きな影響を与えた。
技と美の成熟
17世紀後半から18世紀にかけて、有田焼はさらに成熟の時代を迎える。
この頃に確立したのが、色鮮やかな「柿右衛門様式」と、藩の厳しい管理下で作られた「鍋島焼」である。
柿右衛門様式は、白磁に赤や青、黄の絵付けを施した華やかな磁器で、上品で優美な美しさが特徴。
繊細な色使いと余白の美が調和し、ヨーロッパでも高い人気を博した。
一方の鍋島焼は、佐賀藩鍋島家が将軍家などへの献上用として作らせた特別な磁器である。
藩の威信を示すため、絵付けから焼成まで一切の妥協を許さず、完成した器は緻密な構図と落ち着いた色調の中に、静かな威厳を宿していた。

上品で華やかな絵付けが、ヨーロッパでも高い人気を博した「柿右衛門様式」

将軍家などへの献上用として作られた最高級品「鍋島焼」
こうして有田焼は、「日常の器」でありながら「美術品」としての地位をも確立していった。
暮らしの中の有田――「用」と「美」
有田焼の魅力は、その華やかさだけではない。
有田焼は、鑑賞する美術品であると同時に、日々の暮らしを彩る実用品でもある。
その背景には、「用の美」という日本独自の美意識がある。
形はあくまで機能に寄り添いながらも、そこに美を見いだす──それが有田焼の真髄である。
口当たりの滑らかさ、手に馴染む曲線、そして器の中に広がる余白の美。
これらはすべて、使う人の所作を想い、暮らしに穏やかな調和をもたらすために考え抜かれたものだ。
「器は使われてこそ完成する」──この考え方は、日本の工芸全体に流れる精神でもある。

「器は使われてこそ完成する」日本の工芸にはこの哲学が深く根付いている。
変わらぬ美のこころ
400年の時を経た今も、有田の地では窯の炎が絶えることはない。
その火は形を変えながらも、「美しいものを生み出したい」という人々の思いを静かに燃やし続けている。
有田焼は、単なる器ではない。
人の手の温もりと、自然の恵み、そして時を超えて磨かれた感性がひとつになった、日本の暮らしの象徴である。
白磁の中に映るのは、変わることのない美へのまなざし。
有田焼の静かな輝きは、これからも私たちの生活の中で、ものを大切にする心をそっと映し続けていくだろう。
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